色の素はなぜ無いか

私の会社の人は、ラーメンが好きな人が多く、結構頻繁に話題にあがる。ある時いつものようにラーメンの話になったが、そのときはラーメンへの化学調味料の使用が問題になった。
受け入れたくないという人がいる一方で、ある人はそれほど気にならないという。気にならないどころか、その人は味の○といっしょに育ってきたので、むしろ大歓迎なのだそうだ。その人は40代後半の男性だが、昭和30年代、あらゆるものにそれをかけて育ったらしい。話によると、漬物とかは普通で、刺身とかにまでかけていたとか。口の中がじゃりじゃりするくらいが丁度よかったというのだ。また別の人は、納豆とかにもかけていたとか。結構みんな使っていたようである。

私自身は母がそれを嫌いだったのであまりそれを使わないで育った。だからその話を聞いて、「エー」「うそー」と思う一方で、なぜか懐かしさを感じたのである。使う頻度は低かったが、祖父は結構好きで使っていたからだ。

ラーメンの会話は最後に「最近味の○置いている家少なくなったよなー。」でこの話は終わった。私はそれ以来最近1ヶ月ほど、なぜ日本の食卓からそれが消えたのかずっと考えるようになってしまったのである。

現代人は豊かになり、その味に飽きてしまったからと簡単に説明される場合もあるが、そうすんなり受け入れられるものではない。
また、ネットなどで調べてみると、いかに味の○が体に悪いかを延々に語っているサイトもあるが、それも今ひとつ情報の出所や主張の根拠が正確でないような気がするものが多く、そういう情報に啓蒙されたということでもないだろう。

じゃあいったいどういう理由が考えらえるのだろう。しばらく考えた結果、以下のような疑問がわいてきた。味の○とは何なのかということにつながる疑問である。これらの疑問にある程度答えられれば、ある程度の謎が解けるような気がしたので、私なりに回答を考えてみた。以下にそれを示す。

<疑問1>
砂糖も塩も、料理の味を調えるという意味では同じなのに、使いすぎは問題にされても、使わないほうが良いという話はない。なぜだろう。
<回答1>
砂糖や塩は人間の最も基本的な味覚である。少なくとも野生人ではない人類にとって最低限これくらいは必要なのだろう。
※ちょっとこの説明は苦しいかもしれないが許して頂きたい。太古の昔、砂糖と塩の結晶を手にした人類は味の○と同じように、喜んで食べ物にかけていたかもしれないからだ。


<疑問2>
唐辛子やこしょうは、料理に辛味を加えるが、これも使いすぎに注意されることはあっても、使わないほうが良いということはあまり聞かない。なぜだろう。
<回答2>
これらは入れても溶けてなくなるわけではない。自然のものであり、さらに入れた証拠が残るから安心なのだ。辛味成分が結晶として抽出されたとして、それを振り掛けるようになると、ちょっと違和感があるのではないだろうか?

<疑問3>
色の素(卓上色素)というものは見たことも聞いた事もない。おかずに出てきたタクワンに黄色の色素をふりかけたり、赤飯をさらに赤くして食べるということ普通はしない。なぜだろう。
<回答3>
色をつけることは味をつけることに比べて、そこまでする切実さはないのだ。簡単にいえば自分で色までつけて食べようという人は少ないということだろう。また色を丁度良くつけることは、絵を書くのと同じで、それなりのセンスと技術が必要である。

<疑問4>
インスタントコーヒーも粉をお湯に溶いて飲むものだが、それほど違和感がないのはなぜか?○の素と何が違うのか?
<回答4>
レギュラーコーヒーに比べて、インスタントの味のレベルが高いというのももちろん理由の一つであろうが、コーヒーは、お湯に溶かしたとしても、そのものを飲むものという特徴がある。そのものを飲むものであるから、飲みたくない人は飲まなければ良いという安心感があるのである。逆に味の○は、コーヒーのようにそのものを味わうのではなく、あくまでも別の食材の味に加えるものであることが決定的に異なるのだ。
(インスタントお茶や、インスタント紅茶があまり普及しないのも不思議だが。)

以上の考察は、人間の食への喜びは、おそらく以下のような優先順位で決まっているとい仮説を立てると何かとうまく説明がつくことに気づく。

1.しょっぱい甘いなどの基本的な味がすること。
2.うまいこと。(うまみがあること)
3.料理としての見た目が良いこと。

この順序に条件を満たしていれは、人間の欲求が満たされると仮定する。
つまり味の○のような調味料の使命は、これらの条件を満たす事にどれだけ貢献できるかが課題になるのである。

ここで食卓に置かれた味の○の位置づけを考えると、1と2の中間の位置づけという意味で1.5とい感じではないだろうか。いくら大量に、むやみにかけても、決して心から美味しいという感覚にはならないのである。
さらに着色料について考えて見ても、最も高度な3の条件を満たそうということが目的になるが、これも素人が粉を振り掛けたレベルでは、そんな条件はクリアできるはずがないのだ。そう考えると、色の素が食卓に存在しない事の理由がわかる。

つまり、素人に魔法の粉を与えられても、うまく使えなければ意味がないのである。そのことに現代人は気づき始めたということではなのではないだろうか。もちろん食のレベルが上がってきたことが背景にあることは間違いなく、味の○の地位が相対的に下がってしまったということも確かであろう。
以上のような理由が味の○が食卓から消えてきた理由として私としては、納得できた。

ここでさらに考察を進めてみたい。これまでの考察に用いた条件は、あくまでも素人が使ったことを想定している。プロが使ったらどうなるか。

最近、味の○そのものの利用頻度は少なくなってきても、考えてみれば納豆にもたれがついているし、かつおのたたきにもたれがついてくる。コンビニのおにぎりも結構味がついているし、天然だしでなべをしても、市販のポン酢をたっぷり使う人も多いだろう。私も、味の○を直接かけることは殆どしなかったが、キムチの素を目玉焼きにかけて食べるのは大好きだった。
再び、はじめにお話したエーと思った行為(刺身に味の○等)をもう一度、考え直してみると、エーと思ったのは、調味料を使うことへの驚きではなく、自分で○の素入れるなんてよくやるなーのエーだったのでなないか。(そのときは私自身意識していた訳ではいないが。)
近年プロが用意するもの(売られているもの)は、調味料の使い方が本物と違和感がないようにますます高度化してきており、先ほどの優先順位を満たすように、うまくはたらいてきているのである。味の○のビンはきえても、逆に生活の中での化学調味料への依存度は高まっているというのが現実だろう。

あなたはこの現実をどう思うだろう。

おわり。

PS.
私はここで、化学調味料の使用が良いか悪いかを議論しようとしているのではありません。なぜ味の○のビンが消えたのかを単純に考えただけですので念のため。


(2003.6.23)